Diary 2006. 5
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5月1日 (月)  月初めです。金平糖感!

 昨日の午前0時にいなり様にお参りに参りました。今月も無事に過ごさせてくださいとのお願いです。
 忽ち今日は議員定数の事で議員総会をいたします。少し決め方のルールが違ってきていますが、まともに?はどれが真ともかといわれると難しいのですが、いい案が出るのなら別ですが、そうでないことには合意が出来ないので一定の経験者に判断を委ねるということも必要と思いますが。否定されるんですよね・・・?自分たちの案があまり賛同を受けていないとは思わないのかな?そういうお前はどうだと云われると・・・?皆さんどう思います?最近は金平糖から少し丸くなってなお口に入れて頂くと程良い甘さなんですが・・!


5月2日 (火)  県議会の選挙区の問題点

 昨日と今日の2日間を掛けて議員の定数と選挙区変更の自民党原案を創りました。将に県民には批判を受ける部分があります。判っていて何故訂正できないかに問題があるのですが・・・。特に旧選挙区で選挙をするという部分があり、何度も指摘しましたものの、私の会派の議員同士なので皆さんが云わないのなら仕方ないと認めています。
 更に岡山第一選挙区を削って他の選挙区に付けるというのも、私の会派の岡山第一選挙の皆さんは自分達の主張をアピールしましたが、自民党県議団他会派の同選挙区の皆さんは、自分達の主張出来る選挙区の議員定数を削除して、その削減部分を全体議員数の削除ではなく他の選挙区に貼り付けることに賛成をするのは理解しがたい気がします。
 私達は県民の皆さんに理解がして貰える、即ち配当基数などの法に照らし合わせて、自分達が不利になるかもしれないがと云う定数割りを主張しましたが残念です。
 その選挙区の先生がリコール等の対象にならなければよいのですが・・・。


5月5日 (金)  護国神社で慰霊祭がありましたが決めたばかりの選挙区で既に問題勃発!

 毎年 5月5日には岡山県戦没者慰霊祭が行われます。崇敬会代表は例年、県議会議長が務めますから、今年は小枝先生でした。ここ数年は議員が良く出席を致しますがそれまでは余り出席をしませんでした。戦後61年目となったのでしょうか?不戦の誓いのためにも良いことだと思います。実際に参加の議員は戦後生まれの議員が殆どとなりましたから・・・。
 そこで先の自民党の県議会議員の選挙区と定数問題の話が出席議員の間で問題となりました。新聞論調が厳しいと云うことです。指摘していたことが現実の事になってきていますから8日の議会運営委員会で説明をします。15日の臨時議会の上程する議案の最終の議会運営委員会での議決は12日の議会運営委員会となるのですから、8日の議会運営委員会での与党と野党の攻防は私も委員の一人ですが見物です。激しく攻撃をされるでしょう。休憩を取って自民党案の修正をするか?それとも強行突破をして一斉に批判をあびるか?難しい局面となりました。あっさりとした方が良いと思いますが・・・。私の思いです!


5月6日 (土)  明日は加藤六月先生のお別れの日

 故加藤六月先生のお別れの日が明日となりました。色んな思い出の中で一つ語らせて戴きたいと思いますが、加藤六月先生が小選挙区で橋本龍太郎先生と闘ったときの言葉があります。
 はっきりと自民党から離れられて小選挙区に於いて闘ったときの事です。最初は橋本先生が第五選挙区で加藤先生が第四選挙区との話の時がありました。結果的に云えば第四選挙区で闘ったのでありますが、何故そうなったかと云えばドロドロしたものもあり、現在未だ元気な人もおられるから割愛しますが、一言だけ今も忘れられぬお言葉に
“儂が本気で話が出来るのは龍公だけだからなぁー”とおっしゃられた事でした。直接話法で失礼かと思いますがその通りでした。武田信玄と上杉謙信と言うことなんでしょうね!
それなりにお互いに尊敬と信頼があったのでしょう。闘っている周りの人達にも同じ事が云えたのでしょう。決して卑怯な事をしない状態の中での戦いをしていたんでしょう。今の県議会からすれば羨ましい!


5月8日 (月)  選挙区問題

 本日の議会運営委員会に於いて県議会議員選挙区の問題と定数の自民党案を提出しました。その中でかねて懸念の強制合区の問題が急転直下解決をした。これからと言うときになって、コモンセンスが働いたと言うべきでしょう。なんか変だなという事が同時に口火を切ったという事でしょう。
 手順は当該関係者の二人に了解を取り、選挙区検討委員会の委員に了解を取って議員総会に発表をしたと言う事になります。
 正確に言えばこれで11日の議会運営委員会に於いて15日の本会議に掛ける議案を採決して本会議の採決になればと言う事にはなるのです。
 自民党全体が批判を受けそうだと云う事になりそうだと言う事に気がついたのは、新聞論調もあります。そういう意味での新聞は偉大な処があり、また素直に修正した我が党も変わったと思います。それにしてもまだ少しあるんだが・・・。
 


5月11日 (木)  昨日は時間に追われてしまった。

 自己規範で行動する我々には行動に対する換言は後援会や近い人達から喚起されることがある。それが健全なのですが結構そういう注意をされると余り愉快でない状態を見せる議員、のみならず一般社会でも見受けられるのが現状です。それが、本人に良いことの場合が多いのですが単にその内容を分析しないで批評のみの時もあるのも事実ですが、結構これが大切なんです。
 私の場合は両親が私が他人様の注意を聞かないときに小言を言ってくれておりましたが、次元やその時の状態のみの判断でなく近未来を見たときの判断で仕方なく、今判断すればコウだけど仕方ないなぁーとの、いわば智に棹さして時、と情に棹さした時の判断の綾などを配慮していることが理解されないまま換言されるときの思いは複雑なこともあります。
 しかしながら、亡き今となっては父親は私の最高の助言者だったに違いないと思っています。早いもので今年で七回忌を迎えます。


5月12日 (金)  昨晩の会合

 昨日は倉敷青年会議所の公開講座があり、講師は石井知事が務められました。内容は道州制についてであり、約200名近い人達も熱心に聞いていました。講演内容については割愛をさせて戴きますが、私は道州制については瀬戸内海を県境にしてはならないと言う考え方です。そうすることによって許認可などは規制緩和に結果的になると思っています。
 又、中四国州が出来るまでの間に水島コンビナートなどがグローバル社会で闘うためには規制緩和が必要だから、私はコンビナート特区を第1段階で望んでいます。中四国州が進めば瀬戸内海を挟んで相互が原料等を融通し合うことが出来るなどのメリットが生まれるし、コンビナートなどは再編のルネッサンスが多いに推進され生まれ変わることが期待されると思っています。それまでの間少なくとも水島だけでもそうすることが良いと思っています。
 これは私の意見を申し上げましたが昨日の話題に戻しますと倉敷青年会議所は国会議員が2人現役です。これもこういう時代かとも思いますね。
 一番の偶然のいたずらと思ったのは山陽新聞にチボリ公園の次期社長の坂口氏のことが報道された日に倉敷国際ホテルでの開催であったこと。
 玄関には平素の倉敷国際ホテルとは違った雰囲気でした。知事は私に開口一番ニュースが漏れたことを残念がっておられたこと。漏れた先は××でしょうか?と言っておられた事。
 それよりも社長予定者当人が非常に明るかった事。失礼かもしれませんが大丈夫かなぁーとも思いました。


5月14日 (日)  後援会の研修会に参加をしました。

13日と14日は先勝会という後援会の皆さんと研修に出かけました。13日は午後に出発して蒜山高原のメンバー所有の別荘に向かいました。先発隊は山陰まで食料の買い出しに出かけて合流し、その夜は男ばっかりで色んな事を語り合うことが出来たと思います。
 翌日は動燃、今の呼び方は独法・日本原子力開発機構です。一日のうち8時間が原子力発電との事やフランスは70%が原子力発電でエネルギーを近隣諸国に輸出していることなどを学習しました。日本でもBRICsの台頭から原油価格の高騰を余儀なくされていることからまた原子力発電に頼らざる得ないとの機運が生まれつつあることは原子力行政にとって追い風といえると思います。坑道の中に入らせても戴きキラキラとした輝きのウラン鉱を見させていただきました。また、最終的には鏡野町に施設を取り壊した後に返す事やこれからの役目についてもお伺いいたしました。
 男所帯でしたが中に料理にコンセプトを持っている人がいて、材料の買い出しや調理もうまく、食べることも事欠かず、夜は気温は寒いくらいでしたが楽しく過せました。
 またこういう学習と懇親を兼ねた事が出来るといいと思います。


5月15日 (月)  本日の議会人事

 本日、議会人事が行われました。三村新議長と古山新副議長の誕生でした。私の交代は昨年の5月16日でしたから一日余分でありました。
新議長・副議長にはしっかりと手順を議会事務局が教えてくれていて、ある意味で恥をかかないようにとの配慮をしてくれています。
 私の場合は挨拶まで一通り考えておりましたが、議長から当選の告知を受けた瞬間に頭の中が真っ白になりました。当選の告知を受諾するという手順は間違いなくしましたが、挨拶は別の内容となりました。
 私の前の議席が三期生でしたので、議長選挙直前にどうなんだろうナーとの話に、しっかりとしていないと云々、私の場合はと話していました。三村新議長の場合は私と一緒だったかなと思います。前に出なきゃと周りの人から声を掛けられていましたから・・・。古山先生は挨拶の内容までしっかりと考えてお等れたようでした。構えと姿勢を疾風迅雷と表現したと記憶しています。
 ちなみに新聞記者会見の時、どんな議長と云うよりどんな議員でありたいかと言う問いに、私が答えたのは今も変わりなく、いぶし銀のような政治家になりたいでした。


5月16日 (火)  古山副議長の座右の銘

 昨日のブログで古山副議長の副議長就任の挨拶について触れました。疾風迅雷と記憶していましたが今朝の朝刊を見ると違うんですねー!正確には春風鉄壁を貫くでありました。洒落にもならないですねー。
 この事の断わりにと思いながら、神戸から新幹線で岡山駅まで、車に乗り帰宅までのすがら、タイミング良く古山副議長から禮の電話が入りましたから、経緯を話して今朝の新聞の話と間違っていたことの詫びの話をしました。
 そこで落ち着いてしっかりと話していたナーと言いましたら、彼はその前に選挙区の問題で議員提案の提案者で提案理由の説明に一度壇上に上っていたから予行演習になっていましたとのこと。 私は本当はそうでないと思います。何故なら本日の議会運営委員会の会議の冒頭に正副議長の挨拶がありましたが、その内容は昨日5月15日、犬飼木堂のご命日に就任とありましたから、しっかりと考えて来ている証拠ですね。今日は間違えてないと思いますよ!
 木堂祭は生家でも行われておられるように聞いておりますがこの場合は吉備神社の藤井宮司様が毎年ご供養の慰霊祭を催して下さっています。毎年こられるのが古山先生、と私かな?今年は蜂谷弘美先生と波田洋二先生が来られていました。国会議員の秘書の人もです。



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