Diary 2006. 8
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8月1日 (火)  東京出張です。

 昨日は月初めの稲荷参りの日でした。岡山県下の各地から各々集まってお参りをします。今月も無事でありますようにとの事なのですが、みんなと月に一度は会うと言うことも重要なのです。
 それとそこでの知り人が沢山出来ます。いつも同じ時間に家を出ますから合う人も、夜の12時少し前とかですから合わなかったらそれなりの心配は何かの縁は神様の縁でしょうね!


8月2日 (水)  ブログの題材

 早いもので一年にもなると思います。ブログの題材はあまり困ることはありませんが今日は書きたいと思う事が起きました。
 昨日、上京で今日は東京から富山に飛行機で飛び、他の人は富山泊まりですが私は陳情団が東京に参りますので東京に帰りました。そこに落ち合い国土交通省から分かれて、帰岡する予定です。
 その今朝、14分の出発の遅れがありました。私が議会人にならせて戴き24年になりますが、自信は一度も出発に遅れた事はありませんでしたし、一度だけをのぞくと私が委員会で出発の遅れを経験したこともありませんでした。
私が委員長で出発の朝に一人の先輩議員が10分位遅れ、このままだと水中翼船の出発に遅れるから書記の一人に“おまえさんが残って目的地まで付き添っておいで”と出発しようとした時、その人は普通でしたでしょうが歩き方がのっそりとしていました。“遅れたらおえまあが”とある先生が言いましたら“なんじゃー”で応酬して結局は“遅れて迷惑をかけてすまなんだ”の一言もないことになりました。“わしゃ、岡山へ帰る”でしたから帰岡も仕方ないなと思いながらも一緒に水中翼船に乗りました。“そうじゃろうが委員長!どう思うか?俺があいつに言われる筋合いはない”でした。
 今日のは委員長がきっと大した断りもないでしょうから無視することにします。と言いながらも皆さんには自分の仕切り方に対して申し訳ないと言っていました。
案の定“すみませーん、遅れて、ここしかすわるとこないの?”でした。
 博多で遅れた先生はそのとき以外は遅れたことも耳にしていませんからそれなりのバツの悪さを感じていたんでしょう。
 私は今は亡き小林先生のように注意すべきだったんでしょうか?



8月3日 (木)  亀田ボクシング考

 紹介しますと8月1日からの出張が一緒であった先生が随分と亀田選手の2日の世界戦のことを云っておられた。
 内容はTBSは紅白歌合戦の裏に亀田選手の試合を12月31日に放映する事と亀田選手が必ず勝つと言うものでした。原因は相手のチャンピオンにTBSが多額のファイトマネーを支払うというものでした。そして12月31日に第2戦の世界戦を亀田新チャンピオンで試合を組むというもくろみとのことでありました。成る程レコード大賞は移したんですよね、12月30日に!
 はたして、試合を東京のホテルのテレビで見ていますとこれは完全に負けたと思ったのです。
 ある先生の云うことも違っていたかなと思いきや亀田選手勝利との発表でしたから、ある先生の云っておられた通りかなと感嘆したものでした。
そうなると12月31日が楽しみなことです。
 私は下手なラグビーでしたがその頃は広島の総合運動公園でソウトク高校などの練習はすざまじいものであったが先輩が良く仰られておりました。“せんだー、本当に強い学校がそんなにラフな試合をするものか!よく考えてみろ、悪さしなくても強い”でした。


8月4日 (金)  今日の出来事

 どんな議員になりたいかという主旨であったと記憶しておりますが、議長に就任させて戴いた時に聞かれたことでありました。私はいぶし銀の様な議員になりたいと応えました。いまも気持ちは変わりませんがそうなっているかなと反省しながらの毎日です。
 今日朝早くのお客様は行政の変化に伴う過去の歴史をブッタ切られる方でした。
 私は変化の時は手順が必要といつも云います。細かな気使いがあれば人は納得が生まれるし、協力もしてくれると思います。人の気持ちが通じる事になるのです。最近はそう言ったことが少なく住民或いは仕事をもらう側、時には団体の関係者場合によれば建設業者さん達にもなりますがあきらめムードであります。
 失礼ながら、役所でリーダー的役割の人達を評価させて戴けば、総じて人に優しく嘘をつかない人達だと思います。最もその時にそんな気持ちは無くとも、結果的に云ったことと違うようになることは見当が違うのですから優秀でないことになるのでしょうか!元より人格的にもすぐれているのです。情熱もあるのです。
 七夕のお祭りが水島でありましたが最後の訪問者の方は遠方からお越し戴いたのです。相談内容は人と人の結びつきのことでした。かなり難しい問題ですが朝一の訪問者も最後の訪問者も相談でした。
 私にとってはうれしいことでした。信頼が得られるように人格形成に努めなくてはいけないのでしょう。


8月5日 (土)  うれしかったことと寂しく感じたこと

 今夜が一番多いかと思いますが、各町内の夏祭りです。沢山のご案内を戴くのですから一生懸命、時間と距離を考えながら廻らせて戴き日頃の無沙汰とこれからの事をお願いをさせて戴きながら町内の苦労をご慰労申し上げるのが殆どです。 嬉しい事は3カ所のご案内が増えたことでした。
 悲しかったことは、今月末の告示の町会議員選挙でご引退の話をお伺い致していたものですから訪ねましすと引退とのことでした。
必ずしも私の選挙のご支援は戴いておりませず、他の県議会議員の真面目な支持をされております事は承知を致しておりました。政治行動は一緒のことが多かったのです。
 私はこの先生とのお付き合いはそんなことも承知の上でお付き合いをさせて戴いておりましたからお伺いしたのですが、“うん辞める、まだ少ししたいこともあるしこのまま続けると経済的にも家の中がガタガタになるから、したいことに少し熱中してみる。それから、一生懸命努めても真面目でない議員の方が評価を受けることが多いし、もう疲れた”との話でした。僕は先生のことは好きな先生でしたのにお話をさせて戴きました。
 その先生は周りの人達に私のことを古くからの友人とご紹介を戴き有り難かったのと寂しさの混ざり合った妙な気持ちになりました。
 私は修羅の道でももう少し政治に係わりたいと強く思っています。ご叱正とご支援をお願い致します。


8月6日 (日)  選挙はあります。

 前回は無投票でした。今回も何てよく言われますが、もし今回も無投票となれば12年間も選挙をしていない事と同じ結果になります。
 また、屁理屈でなく選挙が無かったのではなくて、投票しなかっただけでした。
 実際には後援会活動も前日まではしますし、街宣車にも走らせます。ポスターも約780カ所に全部貼ります。
 従って後援会活動の会員拡大の為多くの方々にご努力を戴きます。だから選挙はあるのです。
 最近ではある企業の労働組合の候補者は組合推薦が決まったそうです。後は企業がどのような支援体制をとるかとで落選する事は無いが順位が心配となるようです。企業候補者はですよ!
 それに、政党の候補者として公募などあるようですから気を引き締めて参ります。
 前回の選挙で私の長女が初めて投票権を得たのです。告示日の午後5時には無投票であれば投票出来なくなりますから、午後2時頃に投票に行ったようです。私は普通は最終日近くに発送手続きをする推薦葉書を午後4時頃に郵便局に於いて発送手続きをしました。いわば賭けでした。結果は無投票で有り難かったのです。
 ところで、長女は多分父親の名前を書いてくれていると思う一票の行方です。それに人生初めての投票で投票した一票はどうなったんでしょう?
 クイズではありませんでそんなことがあるから制度が改善されました。不在者投票でなくて期日前投票となりました。告示日に繁候補者が確定しない為に翌日からの投票となりました。
 それまでの一票は開票されることもなく捨てられるんですねぇー!つらいなぁー!


8月7日 (月)  暑い日でした。

 今日は東京で選挙運動を少しだけして参りました。明日は橋本先生のご葬儀ですが、先に今日の東京の約束がありましたから一度の上京で二つのできごとに遭遇できるのは俗に言えばラッキーな事でした。
 いよいよ時代が変わる時かと思いますが参議院議員選挙を考えると小沢マジックにかかっている様に思うます。自民党との相乗りを禁止しているのですが、補欠選挙などで惨敗のようなケースに陥ったら民主党所属地方議員は困ったことになるのでしょう。それが党勢拡大にならないのだと言うのが小沢メッセージでしょう。
 それらは余程意志が強くなければやれないことです。それらの辛さに耐えられず離れてゆく人が出来れば壊し屋と言われるのでしょう。
 政治家の信念はどう貫いたらよいか難しい!


8月8日 (火)  故橋本元総理の政府と自民党葬に出席しました。

 大変な盛大な葬儀ではありましたが段取りはこれくらい宜敷しくない事もないような気がします。岡山でのお別れ会がスムースにゆきますように期待したいです。
 日本武道館ですからそのままそこに集合すればよいと思いますが皇居前の馬場先門に集合させてからそこからバス郵送となりました。会場内まで酷く交通混雑を引き起こして1時間25分かかりました。普段なら15分までですかかっても!
バスに乗るまでの手続きを入れると2時間かかったと思います。沢山の人だから仕方ないか!
 それに出席のための上京だからそれが目的でした。最後まできちんとお別れをして参りました。改めてご冥福をお祈りいたします。


8月9日 (水)  私は冷たい人間か?

 私にとって大切な人が伏せていたとは云いながら本日みまかられました。大変悲しいのですが涙は出ないのです。
 私が葬儀委員長をさせて戴いたときの話ですが早速にお悔やみにお伺い致しますと奥さんが泣いてらっしゃいました。翌日が通夜でやはりご遺体にすがりながら泣いておられました。葬儀の当日も同じでした。友引が初日でしたから結局3日間になりましたが泣いておられました。
 葬儀の途中で側におられた方に‘あんなに悲しまれるのだったら本望ですね’と申し上げたら“自分は親父が死んだ時に少しも悲しくなかった。出来る介抱もした。思い残すことは何にもない。だから悲しくない”との事でした。
 確かにこのご葬儀の場合は昼の少し体調不良を仰られて一人みんなと離れて外出しなかったのですが、自分一人の時に外で作業をしていたときになくなったのですから、奥さんは自分が連れて外出していればこんなにはならなかったと悔いがないと言ったらそうでないでしょうから悔いが残っていたと思うのが普通ですが“それなら普段から大切にしてればいいんだ”とポロッと言われたのでした。ふーんと思いましたね!
 私は父の亡くなった時に、非常に冷静でした。冷たい人間なのか?悔いがなかったのか?
皆さんの目にはどう映ることでしょう!
早いもので今年7回忌です。


8月11日 (金)  議会活動

 私が最初に議員に当選させて戴いた時、廊下などで職員の方に“先生”と呼ばれても、自分はまだ秘書気分ですから自分ではないというより全く気にすることがなかったのです。特に後ろからの声掛け等には全く自分とは思っていないのですから止まることなどなく、更には相手より足が速いから大抵振り切っていました。携帯電話などは出始めで殆どない状態ですから、連絡は困ったでしょうね!
 では今はと言えば変なもので先生という言葉に反応するのですから、自分の気持ちがおごってしまったのかといやな気分になりますが、分析すると返事をしないとあいつは妙に気取っているとか、返事もせんとかの批判に対する事から耳そば立つようになった思います。おごりではないように戒めています。
 では何故先生と呼ばれるのかと考えれば、昔の議員の多くの方には“徳”が備わっていたと考えられるのです。社会全体が所謂封建社会の秩序が維持されていたからそれぞれの枠を超えて立候補すると言うことを考えるには厳しいものがあったのではないでしょうか!
 今は、戦後の自由な気風に於いて制約がないから決心さえ付けばと言うか勝てると見たら自由に立候補出来る風潮が醸成されたから色んな方が議員になるのです。一部の真面目でない方の行動が議員全体の批判となるのです。真面目な若い議員も一杯います。私も行動や発言は気を付けてと思っています。
 一方、役所側で考えれば私達に接触して下さるのは役付きの方が多く年齢で云えば課長さんであれば50歳くらいからでしょうか、私の初当選は32歳でありました。年齢や経験に於いては職員の方が遥かに上であり人間的にも私の方が社会経験不足でしたでしょうが議員というものに対しての敬意から“先生”となるのでしょうね!“先生”に負けない様にならないといけないと思います。
 苦言を呈すればそう呼んでおけば面倒でないと思う人は余り世を深く思っていないのかもしれないと方だなと思える人が多いことも事実です。
 私達もふさわしいように深く今に対して思いを馳せて行動します。多くの方々も世を深く思って戴ければ更に良い世の中が出来ると思います。良い意味の競争でありたいと思います。


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